人 魚














「ねぇ」


呼びかけようとは、何度も思った。


ねぇ、としか声はかけられなくて、でも声をかけたら壊れそうだった。


この関係が、壊れるのが嫌だったから。


彼はとても綺麗で、でも時々苦しそうに、怒っている様に顔を歪める。


その理由はわからないけれど、それを見ているのがとても好きだった。


怒った顔が綺麗な人なんて、滅多にいない事を俺は知っているから。


今夜も月は赤い。


「本当は白なんだよ」って隆ちゃんは教えてくれた、月。


まぁ、一番いろんな事を知ってる姉上だから、信じざるを得ない内容なんだけど、それでも俺は赤い月しか見た事はない。


にごった空や、あふれる情報の波にのまれている人間が滑稽に見えなくもなかったけれど、それでも俺はあの人がいる人間の


世界が羨ましかった。


あの人の傍に居たかった。


そして隆ちゃんの一個上の姉上・スギちゃんから聞いた話によれば、人間は強く儚いもの。


強い面も持っていると思えば、簡単な事で崩れそうになったりする。


でも“欲”は何よりも強い。そう、聞いていた。


俺たちの種族は決して多くない。


ひっそりと生活をしているせいか、俺たちは人間に知られていなくて、伝説上の生物になっているそうだ。


だから人間に見つかったりすると捕らえられて、見せ物にされる。


それだけは避けないとね、って教えてくれたけど、俺もそれは知っていた。


でも、俺は抑えきれなかった。





























「ねぇ。…どうして、そんな苦しそうなの?」


隆ちゃんとスギちゃんにもらった、尾を人間の足に変える薬を飲んで。もう一個の小瓶は、元に戻す薬。


隆ちゃんやスギちゃんもこれを飲んで、歌いに行ってるらしい。


すごく綺麗な歌声を持つ隆ちゃんと、すごく綺麗な旋律を奏でるスギちゃんだから、非難を浴びる事はないだろう。


予想通り、「彼」は驚いた。


そりゃそうだろうな、初めて逢うはずの奴に、こんな事言われたんだから。


「……ちょっと、イライラしてて」


それでも答えてくれた彼。


それが嬉しい。初めて聞く声も、カッコ良かった。


「どうして? ……俺で良かったら、聞いたげるよ」


本当は、聞きたかった。


軽く首を傾げたら、彼は綺麗な金髪をガリガリ掻きながらぼそぼそしゃべり出した。


人間関係や、自分の行きたい事、したい事。そんなものが彼を迷わせていた。


本当に、人間ってものは「強く儚い者」だね? ……スギちゃんの言ってたとおりだ。


俺はちょこちょこと俺の範囲でわかる事だけを教えた。


難しく考える事なんて何もない。


俺の言った事で少しでも彼の悩みが解消されるなら――――そう思って、いろいろ話を聞いた。


夕陽が差して、あたりが暗闇に包まれてしまう前、彼が帰ってしまう頃に俺たちは別れた。


彼はいろんな方面から期待されている人で、俺に話す事で少しでも気が晴れたなら良いけれど。





























数日後、彼はまたあの一緒に過ごした海岸に現れた。何かを捜している様で、俺はまたあの薬で彼の前に姿を現した。


彼は笑ってくれて、俺を捜していた事が嬉しかった。


今度はとても楽しそうな表情で、いろいろな話をしてくれた。


自分の事、この間言ってたしたい事、やりたい事。そして自分に、置かれた事。期待されてる事。


そのプレッシャーさえも楽しんでいる彼は、とても頼もしくてカッコ良くて、好きだと自覚した。


「ああ、そういや名乗ってもなかったな。オレ、J。お前は?」


「俺……は、イノで良いよ」


すると彼は、さっそく俺を呼んでくれた。


その響きが嬉しくて、なんでだか笑ってしまった。









それから俺たちはちょくちょく逢う様になった。









教えてくれるひとつひとつが新鮮で、教えるひとつひとつに驚いてくれて。


でも、何も言えなかった。


本当の事は何も言えないままで、いろんな事を教えてくれた。


いろんな場所にも連れて行ってくれたし、いろんなものも食べさせてもらえた。


珍しくて、楽しくて。


いつも、別れるのがとても嫌だった。


でもいつかは、俺たちはバラバラになる。


いつかは、彼に本当の事を話さないといけない。





























………怖い。以前には持たなかった感情が、頭に響いてくる。本当は持っちゃいけない想いが、俺を浸食していく。

自分自身が怖くて、狂って叫び出したくなるくらい、怖い。





























「お前さ、いつもここでしか逢えないけど…どこに住んでるんだ?」


来た。


いつかは聞かれると思ってた言葉が、俺の心に重くのしかかる。


「……どうして?」


「お前、いつも自分の事あんまり話さねぇから。お前の事知りてェんだ」


「………」


「なぁ、イノ。オレに、話したくない?」


「…離れたくない。Jと、離れたくないんだ」


あなたがくれるものはとても幸せなものだから。


あなたにもらったものすべてが宝物だから。


「……イノ……?」


「だから、訊かないで」


「オレだって、お前と居てぇよ。でも、……」


「お願いだから。Jと離れたくないんだ」


「……なんで?」


「なんでって……」


そんなの、言えるわけない。


隆ちゃんとも約束した、絶対言っちゃいけない『言葉』は、いつも胸の中であふれていく。


その想いに打ちのめされそうなほど、強く深く想っていく。


ごめんね、隆ちゃん、スギちゃん。俺、そこまで強くなかったよ。


「J」


「ん?」


「ひとつだけ。これだけ、叶えて欲しいんだけど」


想いを伝える事が、こんなに怖い事なんて思わなかった。


初めて、誰かを好きだと思ったから。


「俺の事、忘れないで」


「了解。あったり前だろ? ……で、理由は?」


「……好き、だから」


言ったとたん、波が俺を包んだ。


無事に、Jの耳に伝わっただろうか?


わかっていた事だった。隆ちゃんから聞いてた事だから。


人間を好きになっても、想いは伝えちゃいけない。


人間になりたいなら、薬なんかに頼らないで儀式を受けなきゃいけない。


想いを伝えたら、泡になってしまう――――片想いなら。


もし想いが叶えられたなら大丈夫だけど、そんなわけない。


Jが、俺を好きになってくれるはずがないんだ。


「イノ!!」


Jの声が聞こえる。遠くで近くで、とても大好きな愛しい声。


「イノっ……イノ!!」


俺を呼んでくれる声を最後に聞いて、俺は城へと連れ戻された。





























「わかっているな?」


「はい」


心配そうに見守る姉上たちの中に隆ちゃんとスギちゃんの姿を見つける。


きっと激しく後悔してるだろうから、俺は二人に向かって微笑んだ。


安心させる為と、自分を落ち着ける為に。


「姫とは言え、過ちを犯した者には罰を与えなければならん。人間ごときに恋に落ちるとはな…」


その言い方に、むかっとした。


普段怒ったりむかついたりする事が少ない上に、特に気にも留めない方だからこれも聞き流せたら良かったんだけど。


「過ちを犯したとは思っていません」


はっきりと、告げる事が出来ただろうか。


「Jを好きになった事、後悔はしてません」


Jに教えてもらった事、Jが居なきゃなんにも知らなかった事だらけだから。


「罰は受けます。それでみんなの気が治まるなら」


Jにもらったいろんなものがあるから、俺は今こうしていられるんだって事。


「その代わり、Jには何もしないで下さい。もしもJに何かしたら…許さない」


Jの為に、俺が出来る事は何もない。


あるとすれば、ただ想う事しかもう出来ない。こいつらの手から、彼を守る事しか出来ない。


父上はしばらく黙ったけれど、肯いてくれて。俺は牢獄に連れて行かれた。





























「強くなったね、イノ」


スギちゃんからそう言われて、俺は軽く首を傾げた。スギちゃんの隣には、隆ちゃんも居た。


「いつも黙って身を引いてるのに。そんなに、あいつが大切?」


「……うん。Jに何も言えなかったんだ、俺。


 俺が出来るのは、こうやってJを守る事だけしか出来ないから、それだけはしないと……Jが辛いの、やだし……」


ぽつりぽつりと俺が言うと、隆ちゃんは俺を包んでいる水の球体にそっと触れた。


この球体が、俺たちの中では牢獄。


中からは何も出来ないし、簡単には破れない。けれど、隆ちゃんが触れた事で水の球体は弾け飛んだ。


「隆…ちゃん……?」


その次に、スギちゃんは俺の手首についている封印符に触れた。それもまた、スギちゃんが触れる事で効果を成さなくなった。


封印符は無理矢理外そうとすれば、海自体が震える。人間の世界で言う津波とかが起こってしまう。


「スギちゃん?」


「行きなよ、イノちゃん」


「え?」


隆ちゃんの言葉の意味がわからなくて、俺はまた首を傾げた。


「コレあげるから。コレ飲んだら、人間にもなれるし、元に戻る事も出来るよ」


「どうして…?」


瓶を押しつけられる様にして渡されて、俺はまたも隆ちゃんたちに問いかけていた。


「滅多に欲しがったり願ったりしないイノが、自分を犠牲にしてまでJを欲しがっただろ?」


スギちゃんが言うと、隆ちゃんも肯いて続けた。


「俺、イノちゃんには一番幸せになってもらいたいんだ」


「でも! でも…無理だよ、Jは……」


「大丈夫」


俯いてしまった顔を上げると、隆ちゃんもスギちゃんも笑っていた。


「Jなら、大丈夫。イノちゃんの事、ちゃんと想ってくれてる」


「だから早く。父上には、オレ達が言っておくからさ」


俺は二人にすごく感謝した。


隆ちゃんとスギちゃんにお礼を言って、俺は泳ぎだした。


包まれるであろう、あの腕を求めて。





























――――ねぇ、J?


また、傍に居させてくれる?





……あったり前だろ。


お前以外に、傍に居て欲しいと思った奴なんていねぇよ。





うん。ならいいけどさ、もし帰って来なかったりしたら帰るからね。








勘弁してくれよ……。