MARIA 〈 前編 〉 聞こえてくる友人達の笑い声にそっと瞳を閉じて、眠るようにして言葉を失った。 もしもここで静かに息絶える事ができたなら、どれほど幸福か知れない。 けれどそんな事はできなくて、揺り起こされる手のひらの暖かさにふと瞳を開けた。 「眠い?」 そっと聴いてきてくれる漆黒の髪を持つ彼に、笑顔で首を横に振った。 「楽しそうだから、聞いていたかっただけだよ」 「それなら良いけど。こんな飲み屋で寝ないでね」 くすりと笑みを漏らした彼は、立場上酒を飲まない。 手にしていたウーロン茶をあおった。 「あの時にね」 「うん?」 「あの時、もしみんなに会わなかったら――俺、どうなってたかわかんない」 くすくす笑いながら漏らしたそれは、確かにと肯けるものであって。けれど同時に、腑に落ちない面もあった。 彼はこんな昔話をあまり好まない人種で。 「最近は年取ったからかなぁ……ふっとこういうこと思っちゃうんだよね」 あっさりと呟いた言葉に、俺もふと振り返る。 今まで歩いてきた道を、選んできたのは俺自身で。後悔がなかったと言えば嘘になるかも知れないけど。 「俺もね。……たまに考えるよ、それ」 どれもこれもを、自分の好きなようには生きていけない。 名前が知られ、顔も知られていくにつれて「平和」とか「穏和」とかの言葉とはほぼ疎遠になっていく。 逆に売れれば売れるほど、穏やかな日々はなくなっていくわけで。 堂々と顔をさらして歩けるのは、もう生まれた場所では有り得ない。 「そっちは大変でしょ?」 ビールが底をついて、手酌で再びグラスの中を満たし始める。 すると彼はくすっと笑って、軽く首を傾げた。 「そうだね。これからツアーだし、今以上に逢えなくなるかも」 と、恋人の方を見る。 「お熱いことで」 と、茶化してはみるけれど。この二人ならではの穏やかな空気が、俺を安心させてくれる。 「そっちはどう?」 「んー…俺も、これからなんだけど。あいつは終わっちゃって」 かといって俺の方はあいつを見たりなんかしない。そんな甘ったるい関係じゃないって事くらい、誰よりも分かってる。 「そう。………ねぇ?」 「ん?」 「いつまで『カラダだけの恋人』演じるつもり?」 そう言った顔は、何処か哀しげで。俺はわずかに苦笑した。 「演じるって言っても。俺は――そうだね、好きだよ」 至極あっさりと言ってのけ、手酌で満たしたビールを一気にあおった。 「演じるのも、今だけはあいつ独占できてる現状も、あいつの事も」 「………うん」 「でも、あいつはどうだか知らない。そろそろ俺お払い箱かな?」 くすくす笑ってやだねぇなんて呟いてみる。 けれど、目の前の彼は全然笑ってはくれない。 「それで良いの? イノちゃん」 「俺は良いよ。あいつが望むなら、どんな姿も演じてやるよ」 「……ずっと思ってたんだけどさ」 「うん?」 はぁ、と思いきり深いため息を吐いた隆ちゃんは、新しく満たされたウーロン茶に目を落としたままだった。 俺はその真意を気付いてはいた。隆ちゃんが、何を言いたいのかも知っていた。 「イノちゃんって、Jくんにだけは甘いよね」 「……かもね。幼なじみのよしみって感じ?」 「そんなんじゃないよ」 もう、と続けた言葉に、俺はわずかながらに苦笑した。 十年以上も一緒にバンドやってきているから、隠し事はできない。 ただそれに踏み込むか否かなだけだ。 「もう。イノちゃんにはかなわないよね、ほんと」 「何たって俺、裏ボスだからねー」 けらけらと笑う頃には、隆ちゃんも呆れて笑っていた。 「イノ。……あ、隆もここにいたのか」 「あ、Jくん。うん」 ごめんね、イノちゃん独り占めでと笑う隆ちゃんにJは軽く笑っていて。 「隆はスギが呼んでた」 「あぁ、そう? じゃ行かないと」 と隆ちゃんは立ち上がった。 で、残された俺たちはと言うと。 「行こうぜ」 「え、もうあがっちゃうの?」 「あぁ。……オレん家、来いよ」 Jの言葉に、俺はわずかに眉を顰めた。 けれど結局は肯定の言葉を返して、二人してその場を離れた。 Jの車に乗るのは好きだけど嫌いだ。 いつまで続くんだろう、こんな関係。 |