ちいさな声がしたんだ。 寝言かと思ったんだけど、もっともっとちいさくて。 そっと覗いたら、何かを掴みたそうな伸ばされた手があって。 その手のひらが所在なげで、少しだけ開かれた瞳は何も映していなくて。 消えてしまいそうで、怖かったんだ。 「……イノ…ちゃ…?」 「………、のせ……っ……!」 伸ばされていた手のひらをしっかりと掴んだのは確かに自分なはずなのに、けれど彼が呼んだのは自分以外の『誰か』の名前で。 これはまだ彼が夢の世界に誘われている事に気づいて、より一層強く握った。 ここにいるのは彼じゃなくて。 ここにいるのは自分だと示したかった。 ぎゅっと強く掴んで、そっと彼を抱きしめて。ここにいるのだと、一人じゃないんだと教えてあげたかった。 出来るものなら、その夢の世界まで入っていって。しっかりと教えたかった。 ここにいるのは自分で、ここにいないのは幼馴染みだと。 「大丈夫……?」 張り付いた少しだけ長い前髪を払いのけてやりながら、悔しかった。 そこにいたのは確かに自分なのに、確かに彼も名前を呼んでくれていたのに。 それでも、彼に圧倒的なまでの存在感を与えるあの人を。 そうまでさせているのに、彼の傍にいないあの人を恨んだ。 「大丈夫だよっ……一人じゃ、無いから……!」 まるで願うような言葉に、彼はわずかに微笑んで。そっと、俺を抱きしめてくれた。 「うん……一人じゃ、無いよね。………小野、瀬………」 認めてはいるはずなのに、撫でてくれている手のひらの切なさに嫌気が差した。 ようやく眠ってくれた彼を寝かせて、俺は一人ベランダに出て苦手なコーヒーを口に含んだ。 けして彼の目には映らない自分と、永遠に彼の目に映り続ける彼との差。 こんなにも君を求めているのは俺だという事実。 いつかの夢を語るなら傍に在れるものを求めていたと思った。 それはいつまでも変わらない、たったひとつだけの守るべきものだと信じていた。 けれどそれさえも失った時、俺自身さえも守れない俺が誰を守れただろう。 そんな自分に手のひらを差し出してくれたのは彼だった。 片手には彼の手を繋ぎながらも、彼を蹴り飛ばして押し出す為に一言だけを告げた彼が、俺に手を差し伸べたのだ。 言葉を多く持たない彼は謝罪の言葉だけを呟いた。 何を告げるでもなく、言い訳がましく理由を述べるでもなく、ただ一言だけを呟かれた。 「ごめんね」と。 たった一人で歩き出す事の怖さを誰よりも俺は知っていた。だからこそ、あの時のようにはなりたくないと思った。 今度は全員が味わい、あの時のような約束さえ無いというのに、それでも歩き出さなければならなかった恐怖。 その中で彼がいつまでも行動をしなかったのは、全員の行動を知りたかったからこそであり、それを見極めてから自分の方向性を 打ち出す為でもあった。 何もかもを彼の基準ではなく、自分の基準で。それがすべて彼とあの人を結びつける結果になったわけで。 それらはすべて、二人の関係の濃さにあった。 「俺も、彼の事なら判る」 「こいつは空気みたいな存在だから」 彼が漏らしたその一言に、ふわりと微笑った彼はその後に荒々しい所作で撫でられる事さえ拒んでいなかった。 いつもならば頬を赤く染めて殴りかかるにもかかわらず、彼の手のひらにすがり付きそうな笑顔で微笑んでみせた。 そんな綺麗なものは今まで見た事がなかった俺は一瞬にして打ちのめされたのだ。 互いを誰よりも大切にしていてそれゆえに相手の事しか見えない恋愛なんてものじゃなく、まるで達観したように何も言わなくて も互いの事が判っている恋愛。 それでいて、見ている方は不安にならないような恋愛をしている人たちは初めて見た。 だからこそ俺は二人に興味を持って、二人に懐いたと言っても過言ではなかった。 ちいさな雫を落として涙を流した彼を包み込んでやれるのはきっとこの人だけで、それと同じように悲しむ彼を抱きしめてやれる のはあの人だけだと知っていた。 どれほど相手がそれを拒んだとしても、互いを包めるのは互いだけだと知っていたはずだった。 あの時に別離の言葉を吐いた彼が責められるのは当然で、けれどその様子を痛ましい瞳で見つめていたのを知っていた。 この言葉を吐くべき人は彼ではなく、自分なのだと知っていたのにもかかわらず何も言わなかったのは、彼があの人よりも早くそれを告げたから。 互いを誰よりも大切に想っているから、知っているからこそ彼が取った行為はけして内面を知る人以外には伝わらないものだろうと思った。 それを俺が知っているのは俺が二人の行動を盗み見していたからに他ならなくて、それを本人達に告げる事もできないから黙っていただけだった。 あの時彼が誰よりも守りたかったのは俺たちではなく、彼一人だった。 人一倍優しく傷付きやすくて、それでも前を向き続ける事を止めず、現実から目を背けもせず立ち向かう彼の姿だけが、瞳の中に映っていた。 大きな手のひらも、背中も、すぐ傍に在らなくても良いと蹴り飛ばすように送り出した彼の姿がとても綺麗だと思った。 そして俺は何も言えずに、何も言わずに。 ただ立ち止まっているだけだった。 あの時のように、「好きだ」と伝える事もできずに。 ただ傍にいるだけだった。 「まだ居たんだ?」 あくまで冷たいような響きを持った彼の言葉に、俺は振り返る事さえ忘れた。 「あ……うん。ごめんね、長居して」 目の前の沢山のCDの中から探している振りをして、ここにいられる口実を探した。 さっきまでの脆く儚げな彼の姿はどこにもなく、そこにあるのは酷く残酷なくらいに一人でいる事を望む姿。 傍に在れるなんて思ってもいないけれども、それ以上に突き放す姿は酷く綺麗に見えた。 まるで何かの神様のように、綺麗に。 「無い?」 「ううん、見つけた。イノちゃんCD多いから手間取ってて。ほんとごめんね」 「いや――……いつでも良いから」 「え?」 「それ。いつでも、良いから」 見つけた、借りるCDは俺の手の中に収まっていた。 それはいつか、彼があの人と話していた「良い」と言っていたCDで、俺も偶然探していたもの。 「うん。でも、なるべく早めに返すよ」 「――――……Jに渡してくれても良いんだけど」 「駄目。だってイノちゃんは俺のだしぃー」 「ばーか。語尾は延ばさない」 くすくすと忍び笑いをして、ようやく微笑んでくれた彼。 その笑顔はきっと、彼の隣にいた時よりも儚くて、ささやかな光を伴ったもののように見えた。 俺にはまだ彼の隣にいた時のような、まぶしい笑顔を見せる事ができないけれど。 けれど、それでもきっと、彼よりも俺の方が君を愛してると言う事は間違いないと思った。 まるで崩れ落ちそうな表情をして、気持ち良くなるような程の晴天の中で部屋に飛び込んできた彼の姿を、もう二度と見たくはないと思った。 それが例えあの笑顔を奪う結果になったとしても、いつかは自分の手で見せてくれるようになればいいと心底思った。 あの時から、俺は貴方に捕らわれたまま。 「ねぇ、イノちゃん?」 「うん?」 軽く首を傾げて、俺用に紅茶を用意してくれた彼はコーヒーを口に含んでいた。 「好きだよ」 「――――……っ…」 「大好き」 「……うん……」 今はまだ、それを口にする事さえしてくれなくて良い。 いつか、本当の想いを告げられるまでの代用品で良い。 偽りのリングなどもいらない、偽りの愛情を向けてくれる人。 約束も現在も、君に求めない。 ただ俺は貴方の傍にいたいと思うから。 もう二度と逢う事などできない相手を愛し続ける、貴方の傍に。 |