そっとキスをして。


 優しく抱きしめて。


 傍にいたいと思った気持ちは本物だと思った。








 ねぇ。


 例えば僕が死んだら、同じだけの想いで想ってくれますか。














H A N A B I















いつまでも忘れない。


それは口約束なんかじゃなく、彼の想いは本物だった。


例えどれほどの手を尽くしたとしても、彼のかの人への想いは簡単に消え失せるほど軽いモノじゃなかった。


むしろ傍にいたいと思っているのはただ自分だけじゃないのかとも思い始めた。


そんな虚しい恋は終わりにすればいいのに、それさえもできない俺はどうすれば彼が微笑ってくれるかしか浮かばないままだった。





『もう、やめれば?』





一人で墓標に来るたびにそんな風に嘲笑われているような気になる。


いつもと同じ、仲間だった頃と何ひとつ変わらない、傍に在れば安心させてくれるような余裕の笑みで。





『いくらお前が想ってたって、こいつはオレのもんなんだよ』





いつか彼を連れ去ってしまいそうなほどの余裕は、むしろ腹立たしくなってもおかしくなかったけれど、俺にはそう聞こえなかった。


そんな幻聴がいくら聞こえていたって、最期の彼の言葉をはっきりと覚えているからこそ。


俺は、彼との約束を守る以外に何もできないと判っていたから。





























――――…オレが死んだら、さ。イノ、頼むわ』






























“そんなの駄目だよ”


そう言った俺の言葉は建て前だったか本音だったか定かではなかった。


けれど限りなく本音に近い嘘で、心のどこかでは彼さえいなくなればあの人は俺のモノだという気持ちもあったのかも知れない。


そして、それを見抜かれていた事も。


彼は本当に『カッコ良い』人だった。


男からは憧憬の眼差しを、女からは恋慕の眼差しを向けられていながらも、そんなものは何もいらないと言い捨てられるような強さを持っていた人。


ただ一人、彼さえ居れば良いと言い切られるような強さを持っていた。


そして、きっと彼無しでは生きられないような人だった。


そして―同じだけ彼も弱い事を何よりも知っていたはずなのに、彼には生きる事を切望していた。


花のように潔く散る事を恐れない、強い人だと誰もが言っていたにもかかわらず、かの人だけ皮肉げに彼を嘲笑った。





























『何でこんな所で寝てんの?』






























気付くならそこで気付くべきだった。


もっと早く彼の『異常』に気付いていれば、俺は本当の意味で彼を救えたのかも知れない。


イノランは――――Jの死を、受け入れられなかった。


いつも多くを語らないからこそ『強い』人だと思われていた彼は、その人と同じだけ『弱い』人だった。


むしろ彼の方が弱くて儚い、壊れやすいガラス細工のような人だった。最初に受けた印象をまったく裏切らない人だった。





























『ねぇ、何でそこに居るの? ……こんな所で寝てるの?』














『俺を置いて、何処に行く気なの?』






























皮肉げに綺麗な唇を歪めて、涙のひとつも浮かべずに彼は見下ろした。


何の為に来たのかも判っていない、不思議な表情で彼を見つめたのは俺もさすがに驚いた。


けれど、あの日から判っていたのは―イノランは全身で『生きる』事を拒否した。


自殺を図るような事はしてはなかった。


手首を切ったり、睡眠薬を飲んだりとはまったくしなかったけれど。


同時にJはイノランの『心』を持って行ってしまった。


「イノちゃん、美味しい紅茶見つけたんだ、飲まない?」


「え……? あぁ、うん…ありがとう」


いつも以上にぼんやりと空を見つめる時間が増え、外に出歩く事さえしなくなった。


夜などはただ薄明かりの灯った部屋の中で、何をするでもなく一杯だけの彼の好きだった酒を飲んでから好きな時間に眠っていた。


雪の降り積もるような静かな夜には、ベランダに出ていた事もあった。


すべての『心』を持って行った彼は、なおもこの人を生きさせようとしたのは何故だろう?


『空気みたいな存在』なら、相手が居なくなった時点で死んでしまってもおかしくないような関係なのに。


「どう?」


「ほんと、美味しい……ね」


「でしょ? というワケで今日は奮発してケーキも買ってきたよっ」


トン、と軽く置いた白い箱にようやく柔らかな微笑みを見せてくれた彼は小さく拍手をしてみせる。


明らかにあの時のような風貌でなくなった彼は、今は肌は真っ白になり、どこか作られた人形めいた綺麗さを持っていた。


「ちゃんとイノちゃんの事を考えて、甘くないチョコケーキをゲットしてきました!」


「さすが隆ちゃん、判ってくれてるね」


「でっしょー? だてにイノちゃんに恋してないからねっ」


こういう言葉さえも以前は禁句だったのにもかかわらず、俺は逃げていちゃ何も始まる事はできないからとイノランに愛を囁き続けた。


俺が彼を愛しているのは間違いもないし、彼があの人を愛していたのは間違いなかった。


それを塗り替えられるものならやってみたいけれど、それまで俺は強くない。むしろ彼よりも、深く愛されたかった。


この帰らない人を待ち続ける彼の為に、俺はいつまでも傍にいて好きだと言い続ける。


ひとときの夢で構わないと嘯いても構わなかった、彼が微笑ってくれるようになるなら。


少しでも、生きていて良かったと思ってくれるなら。


「今日はねー、ガトーショコラで攻めてみました。俺、生クリームとかついてるのよりこっちの方が好きでさ」


「あ、それは俺も同感。うわ、美味しそうだねー」


開けて二人で挟んで見たガトーショコラは、確かに値段分だけはあると思うほど美味しそうだった。いや、それ以上に美味しそうに見えた。


何よりもこの少しだけでも良い、笑顔を見せてくれるなら、金なんか要らなかった。


「じゃイノちゃん切ってよ。俺、紅茶淹れてくるから」


空になったポットを持ち上げると、イノランはわずかに微笑んだままでケーキにナイフを入れた。


今や紅茶を淹れる腕だけは誰にも負けない特技を持ったのは、コーヒーで一日を過ごしてしまう彼の為にせめて紅茶でと美味しい


淹れ方を追求したもの。


あまり上手く料理などは作れないけれど、それでも彼は口にすると美味しいと言ってくれた。


「完成ー」


これでも微笑ってくれるようになったのに、杉ちゃんも真ちゃんも心底安堵していた。


彼が居なくなった時などは、本当に死んでしまうのではないかと思うほどだったから。


笑いもしなければ表情の変化も何もない、コーヒーと煙草以外は何も口にしようとしない、外には出ようともしない。


完全な引きこもり状態の上に、窓辺に座ったままずっと空を見上げていたから。


―それほど、彼を愛していたから。


イノランに『生きろ』というのは酷い注文だった。


けれど俺は彼との約束を守るべく、イノランの家に行っては何やかんやと世話をしていた。


「ん、美味しいね」


「うん、ほんと美味しい……」


初めて“俺”を認識してくれたのは、通い続けた三日後。


初めて俺の料理を口にしてくれたのは、一週間経った頃。


今では微笑ってくれたりもするし、ちゃんと食べたりもしてくれるようになった。それでもやっぱり外には出ようとはしないけれど。


こうやって普通に生活できるようになって、今では俺が行かなくてもそれなりに食べてはいるようで。


「……迷惑かけて、ごめんね」


「……何、あぁ、ケーキの事? 気にしないでよ、俺が美味しそうと思って買ってきたんだから」


「うん……Jが帰って来ないからさ、隆ちゃんに迷惑かけてるんだよね…」


いくら帰って来ないと言い続けても、それでもやっぱり彼を信じて待っている。まるで忠犬ハチ公のように、健気に待っている。


例え二度と帰って来ない事を本当の意味で知ったとしても、彼は待ち続けるんだろう。


「……J君、あれで忙しい人だからね」


だから俺は嘘を吐き続ける。


泣けない弱い心も、泣かない強さも要らないのに。


それでも君はただ一人ですべてを抱えて、彼だけを待ち続ける。


「ねぇ、イノちゃんは―…なんでJ君を待ってるの?」


「………判んない。連絡も何にもないけど」


それでも彼が待ち続ける理由は、幼馴染みとかそんな馬鹿な言葉のせいじゃなくて。


何よりも強い、二人だけの絆の強さの証だと判っていたのに。


「それでも待ってるの。馬鹿だよね」


俺は知っていた。ひっそりと、一人で泣く事のつらさを。





























『逢いたいよ……ねぇ、逢いたいよ』






























俺は知っていた。





独りで泣いていた、この人の肩の細さを。





抱きしめていた、この人の手の小ささを。





浮かべていた、この人の表情の脆さを。





その姿がまるで花火のように、儚い美しさを持っていた。








だからこそ余計に、許せなかった。


彼を置いて逝った、あの人が。








彼にこんな表情をさせる、あの人が。


羨ましくて、哀しくて。どうしようもなかった。