聞きたくなかった言葉。 けれどいつかは聞く事になると思っていた言葉。 「もう終わりにしよう」 開いた扉の向こう側で、低音ヴォイスに足はぴたりと止まった。 いっそ潔いような言葉はそれでも酷く心を傷付けるのに。 酷く冷たく思ったのは、どうするんだろうという事だけだった。 「………そう」 二人とも横顔しか見えないこちらにとっては、それだけでイノランの言葉を吐く瞬間の声が判った。 その横顔は、こちらが見ているだけで痛くなるような笑顔を浮かべていて。 でもその笑顔には微塵も涙の欠片はなかった。 「判った。今まで――――馬鹿みたいだけど、……ほんとにありがとう」 痛々しい笑顔から洩れた言葉はまるで手垢の付いた言葉のようにも聞こえたけれど。 それを言っている彼の表情は明らかに無理をしてた。 それを、彼が判らないはずはなかったのに。 「……イノ」 「謝ったら……っ」 何かを告げようとする彼に、イノランは少しだけ伏せていた顔を上げていた。 凛とした声で、はっきりと彼の方を見つめて。 そんな事が今この時にできるなんて、彼は本当に強い人で。 「謝ったら、ぶっ殺すからね」 健気にもにっこりと微笑ってみせた、その笑顔さえももう別れの余韻を残させない。 酷く彼は傷付いたような、安堵したような――何とも言えない笑みを浮かべた。 「……でも、悪ィ」 「殺すっつってんのに」 「でも。お前身代わりにしたのは、嘘じゃねぇし。……傷付けてたから」 今一歩踏み出す事のできない会話内容は、おいそれと容易く俺が尋ねられるものではない。 きっと尋ねたなら俺の命までもが危うい気がする。それは冗談としても。 尋ねるなんて、野暮な事はできない。 「……でも、お前を愛してたのはほんと」 「うん……判ってる。……俺も、さ」 “愛してた”、ね。 吸う事のないさっき友人から取り上げた煙草がこんな時に役立つなんて思いもしなかった。 好きな人の、誰よりも愛してる人への告白を聞くのはこれで最初で最後。 「俺も……愛してたよ」 きっと彼からこの言葉を引き出させる事ができるのは、今別れを告げた彼だけ。 そして彼からこの言葉をずっと聞きたがっていたのは、今別れを聞いてる俺。 瞬間、まるで熱に浮かされたように抱きしめていた。 その姿には何も、そう何の感情も見えなかったかと言えば嘘。 「ちょ……何、どうして?」 「判るかよそんなの」 ただののぞき魔のようにも例えられる自分が酷く情けなかった。 けれど、彼の表情から目を逸らす事ができなかった。 「大丈夫だよ。明日から、親友に逆戻りだね」 「……そう、だな」 「ほら気にしない。俺は大丈夫だからさ」 「あぁ……悪いな、イノ」 「はい2回目。ペナルティとして今度何か奢ってね」 「冗談」 「駄目。ほら、さっさと打ち合わせに行って来るっ!」 「イノ」 「なに?」 「……誕生日、おめでとう」 追い出した彼から姿を隠れて、ようやっと姿を消した。 そっと見つめたドアの隙間から漏れる光の中で、ひっそりと俯いていた。 「………愛してるよ、潤。ずっと」 いつまでも変わらない愛を呟きながら、どうしようもないのだと無理に納得した姿。 明日からは戻るだけだと必死に自分を言い聞かせていた。 謝罪の言葉も、言い訳も、何も受け付けずに微笑った。 本当に彼は強いと思った。 そんな、姿を微塵も感じさせないで微笑った彼は。 二度と言わない言葉を繰り返した。 けれど。 「……こんな事、……判ってたのにね……」 判っていたのにと繰り返し嘆く彼の姿だけは見てはいけないと思っていた。 彼が判っていた内容が、俺には判らないからじゃなく。 こぼれ落ちた綺麗な涙さえもが、彼のもの。 「………大丈夫」 「ねぇ。判ってたって、何が?」 「隆…ちゃ……」 踏み出した足がどうしようもなく震えるのを自覚した。 それでも、小さく震えた彼の姿にはけして負けてはいなかったのに。 「どうしてそんなにあっさり肯いたの」 「イノちゃんの想いって、そんなモノじゃないでしょ」 「どうして前に俺に言った時みたいに、傍にいて欲しいって言わないの」 尋ねるんじゃなくて詰め寄るみたいな言い方に自分自身舌打ちした。 傍に居てと言ったのは、嘘じゃなかったのだと信じていたかったから。 それほどの想いで二人が想い合ってると判っていたから。 だから、俺は言わなかったのに。 「……身代わりって、何」 びくりと大きく震えるのが判った。 喉がひゅと鳴るのさえもはっきりと聞こえた。 聞いちゃいけない事だって、判っていた。 それでも聞かざるを得なかったのは、ただ単なる俺自身の純粋な問い。 「――――――――」 彷徨った瞳の先に映し出された、彼のベース。 愛用してる、大切な大切な楽器。 「………俺に、重ねてるって判ってたから」 そんな言葉の意図する人はたった一人しかいない。 なんとなく気付いていた。 俺が愛してる人が泣き叫びそうなくらいに愛してる人の、想い人を。 気が狂いそうなくらい愛されてるのに、それでも他の誰かを想う彼が憎かった。 気が狂いそうなくらい愛してるのに、それでも彼を想うこの人。 届かないと判ってる自分が馬鹿みたいだった。 「いつも、ちょっとずつ判ってたから――――だから」 「責めなかった?」 こくり、とちいさく肯いた髪がはらりとこぼれ落ちた。 どうして、こんなにもどかしいんだろう。 どうして、こんなに苛立ってるんだろう。 「黙ってて――それで良かったの」 「潤が、微笑ってくれるなら」 馬鹿みたいな答えだと純粋に思うけれど。 それでもそれを選んだ彼の選択は間違っていなかった。 例えあの時に言っても、きっと彼の答えは揺るがなかったはずで。 「っんだよ……」 それでも言葉を発してしまう俺をどうか許して欲しかった。 誰の所為でもない、自然とそうなったからこそ。 誰を責める事さえもできなかった。 けれど時間を戻す事なんてできない。 そんな事はありえない。 「ごめんね、隆ちゃん」 相談にまで乗ってくれてたのにね。 続けるイノランの言葉さえ、もう哀しげになっていた。 「でも結局は、俺たちが近すぎたからなのかもしれない」 一緒に居る時間さえも誰よりも長かった。 傍にいる時間さえ、誰よりも多かったから。 「いつも一緒にいたから、こういうの、駄目だったのかもしれない」 「そんなのイノちゃんが自分責める事でもないじゃない」 こつりと身体を壁にもたれさせて、髪の先から雫がこぼれ落ちるのを他人行儀に見ていた。 そんな事さえ、どうでも良いかのように。 「良いの、もう。隆ちゃん濡れてるじゃん」 雨の中を歩いてきたからだと言えば彼は心配するから。 どんな言葉を言ったとしても心配するから、黙った。 「……もう。ほら座って?」 何もかもを曖昧に終わらせようとする彼の姿。 けれどきっと、俺がいなくなったら一人で泣くんだ。 「良くないよ」 「え?」 「何でそう判ってて! 縋り付こうとしなかったんだよ…」 あの時一緒にいて欲しいと、泣き出しても効果が無くても。 より一層自分を追いつめる結果になったとしても。 それでも、彼にはイノランの想いの深さは判らないのだ。 それくらい想われてるなんて知らないんだ。 「良いの。あいつは鎖で縛り付けても、引きちぎって自由を選ぶ奴だから」 「何それ」 「ほんとだよ? もしも俺が死んだって、あいつはあの人のトコに行くよ」 何それ。 馬鹿じゃないの、とは言えなかった。 そんな馬鹿を愛してるのは、俺が世界中で一番焦がれてる人で。 そんな人を好きになったのは、俺自身だから。 「……俺、帰る」 「仕事は?」 「終わったよ、さっき。電話忘れちゃったから寄っただけだし」 手早く服を着替えて、忘れ物を鞄の中に詰め込んだ。 その間俺たちは何の一言も話す事なんて無くて。 「ごめんね、隆ちゃん」 イノランのたった一言だけの謝罪が痛かった。 いつまでもこの人は彼に囚われ続けて。 俺はいつまでも、この人に囚われ続けるんだろう。 俺たちは、永遠に恋人同士にはなれない。 |