まるで夢の中にいるようなものだった。


その腕に抱かれる強さも、痛かったけれどそんな事どうでも良い。


手に入らないのは俺のせいで、俺が今まで彼をどう思っていたか。


だからこそ彼はこんな風に俺を抱きしめるのだし、こんな風に決して手に入らないもののように俺を崇拝する。




俺は何の力も持たないただの子供と同じなのに。


彼はそれを信じずに俺を抱きしめる。





























Fragment






























押し倒された手前はねのける事は出来なくて、ただずっとJを見ていた。

俺がこんなにも何も持たないのにそれでもJは俺を見ていたし、俺はJに何も持っていない事を告げる事が出来なかった。

大切だと思っている、けれど互いの中で違うのはその『大切』の意味合いだった。

俺はJを幼馴染みとしても親友としても、バンド仲間としても大切だった。

だけどJは俺を幼馴染みとして親友としてじゃなく、好きな人として大切だと。

そういわれて初めて示した拒否はその後もJを苛み続けたかもしれない。それでも俺の考えは変わる事はなかった。

なぜなら俺はJを一度もそういう対象で見た事はなかったし、むしろ逆に幼馴染みとして親友として大切だと思う気持ちの方が

強くなっていたから。

それに、俺はもうすでにJ以外の人のものだった。今更Jを好きだと受け入れるわけにはいかなかった。




「俺、隆ちゃんが好きなんだけど」

「知ってる」

「だったら離して」

「離したら逃げるだろ」

「逃げない」




押し問答が続くのは嫌だった。

Jをそんな対象に見た事が無くても、俺はJに対して有り余る程の強い信頼を寄せていた。

それはむしろJを燃え上がらせるばかりだと知っていても、俺は一度築いたJへの信頼をそう簡単には打ち砕せなくて。




「俺はJから逃げないよ」




どんなに怖くても、どんなに恐ろしくても。

どんなに裏切られたとしても余程の事がない限り俺はJを信頼しているし、それは恋人である隆ちゃんがやきもきするくらいの

強い信頼だった。

大切だと何度告げてもJはその言葉の意味を深く考える事なんてしない。

だったらいっそJに抱かれてはっきりさせた方が良いんじゃないかなんて思ったけれどそれはさすがに許せないし、

隆ちゃんがどんな思いで俺の隣に経ってくれているかを知っているからそれは出来ない。




「ねぇ、だから離して」

「逃げるよ、イノは」

「逃げない。信じられないならこのままでも良いけど」




押し倒されて、彼に見下ろされて。

見下ろされるのは何度体験していても、ここまで真剣な表情で俺を見つめた事は今まで無かったはずだ、Jにしても。




「俺はお前に抱かれるわけにはいかない」




はっきりと強い拒否を示せばJは少し顔をゆがめた。




「俺はお前を幼馴染みとして、親友として好きだ。だけどお前が思ってるような気持ちは返せない」




俺が傍に居すぎたせいでそれが出来ないとするなら、Jは俺の傍に居すぎたせいで俺を好きになったんだろう。

そんな皮肉はまっすぐにJに伝わるかは判らないけれど、俺はまっすぐにJを見つめて伝えた。




「俺はお前を信頼してる。それこそ、隆ちゃんよりも強い信頼だと思う」




俺のこの気持ちは誰にどんな話を聞いても、Jへの信頼だけは変わらなかった。

やっぱり一緒にいたからこそ築き上げられたものでもあるし、一緒にいたからこそJを誰より知ってると自負している。

こいつの事ならどんなに年月が過ぎ去っても、その笑顔ひとつさえあれば間違えない自信がある。




「お前が俺を抱いたら、それが最後だよ」




言い換えればJが俺を抱かなければいつまでも一緒にいる事は出来る。

だけど、Jが俺を抱いたら俺たちの絆はもろくもそこで崩れ去る。

どちらが良いかなんて考えるまでもなく、Jはゆっくりと俺から離れた。




「卑怯だろ」

「卑怯だって言うなら、いきなり押し倒すお前も卑怯」




ぴしりと反撃してみれば彼は思わず苦虫を噛み潰したような表情を浮かべて。

寝転がったままの俺に、再び覆い被さるようにして俺を見つめた。




「なぁ、お前は……」

「なに?」

「お前の中では、オレにする選択肢は無いのか?」

「かもね。考えた事もないし」




言うが早いか重ねられた唇の熱さに驚く暇もなく、俺はゆっくりと瞳を閉じた。キスを拒むなんて事は俺には出来なかった。

何故かと言えば、俺たちの間ではキスなんてものはもう高校の時にしてしまった事だから。

あの時からもし潤が俺を好きだったら、なんて残酷な事をしてきたんだろう、とふと思う。

重ねられた唇がゆっくりと離れていくのにそう時間はかからなかった。

すくい上げられるように抱きしめられて、俺もその不安定さに背中に腕を回した。

こんな事も別に拒む理由は何ひとつ要らなくて、俺は変わらない肌にそっと口づけを落とす。




「なら何でこういうのは拒まないんだよ」

「だって今更、でしょ?」




重ね合う声も指も、すれ違うような吐息も、俺たちには何もかもが今更で。

だてに十年以上一緒に過ごしてきた訳じゃなくて、俺たちが唯一侵さない領域は抱く事だけだった。

抱きしめ合うのもキスも、それこそ数え切れないくらいしてきたけれど。

俺は決してJに抱かれる事をよしとしなかったし、Jもそんな俺にもう慣れてしまったのか求める事はなくなってきた。

けれどいつからか、俺が隆ちゃんと付き合いだしてからは何度かJは俺を欲しがった。その度にのらりくらりかわして。

けれど、捕まるのは時間の問題だって自分で思っていた。




「俺はJが大切だよ。だから、抱かれちゃいけないの」




頭をぽんぽんって抱きしめるように軽く叩いて、その髪にそっと口づける。

俺の戒めは絶対にJに抱かれない事で、それをしちゃったら俺はJから離れなくちゃいけないと決めていた。

Jとはそんな関係になりたくない、と言うのは建前。




「オレがこんなにお前に惚れてても?」

「うん、駄目なんだよ」




Jへの気持ちがまだ判らないままで良いと思うから。

もし俺が本当はJが好きだったとしたら、付き合ってくれてる隆ちゃんに申し訳ない。だから俺は、Jには抱かれない。

抱きしめる腕も、口づける唇も、撫でる手のひらも俺からはいくらでもあげる。けれど、抱かれる事だけはしない。

そう決めたのは、高校に入学して、潤とキスしてすぐくらいだった。




「お前が俺に一緒に組もうって言ってくれた事も忘れてないよ。でも、俺たちのバンドはあれでただひとつだから」

「………うん」

「だからお前とはもう組まない。俺はケンとやるの」




くっつき合って、決してそんな話が出来るわけでもないのに。俺は左耳にJの鼓動を感じながら呟いた。

抱きしめる腕の強さももう慣れちゃったし、口づける激しさも身をもって体験してる。

だからこいつがどんな女を抱いたって、決して本気にはならない事も知ってる。

そしてその女がほとんどJに惚れてるかもしれないなんて事も。




「ねぇ、潤?」




さっきから何も言えなくなっているJを見上げて、俺はそっとその唇にキスを落とした。




「俺たちは、恋人同士にはなれないって言ったよね?」

「…………ああ」

「恋人同士になれない。ならないのは、お互いのためだよ」




もしも俺たちが互いに惹かれ合って、互いに溺れていたら。あのバンドは壊れなくて済んだかもしれないなんて思わない。

遅かれ早かれ壊れる事は判っていたし、壊れても俺たちの絆はそう簡単に壊れないって知ってる。




「俺は隆ちゃんのものだけど。けど、俺はJを誰より信じてる」

「……うん」

「それじゃ駄目?」




首を傾げるようにしてみれば、潤はふい、と少しだけ視線をそらした。




「駄目って言うか……」

「俺はこれがいい」




少し離した体をまたひっつけると、そこからじわりと浮かんでくる熱。

ゆっくりと広がっていくその温かさに眩暈がしそうでふわりと瞳を閉じた。




「誰も失えないからね、もう」




失うのは一瞬なのに手に入れるのは時間がかかる。

身を持って知っているから、俺はJを失えなかった。




「ちゃんと言ったよ、俺は。待ってる事なんて出来ないって」

「知ってる」

「言ったのにそれでも離れたじゃん、お前」




Jが俺を置いていった事があった。ちゃんと俺はJに、待ってる事は出来ない、って言ったけれど。

それでもJは自分のために置いていって。その間に俺は隆ちゃんと仲良くなって。

Jの選択は間違ってない。間違ってないんだ。ただ俺が隆ちゃんを好きになっただけで。

だからこんな微妙な、曖昧な関係になってしまってるのかもしれない。

腕を捕まれたままもう一度ベッドに縫いつけられて、俺はただJを見上げた。

久しぶりに会った彼はどこか獣じみた姿を持っていて、満月のこの夜に彼は変貌しそうだった。

満月は人を変える魔力を持っているって言われてるって聞いた事があるから、余計に。

Jが知らない人に見えて、でも不思議と怖いとは感じなかった。




「じゃあ、染め変えてやるよ」




にやりと人の悪い笑顔を浮かべた潤に俺は思わず微笑んだ。




「お前の根本的な所から、何もかも。オレのものにしちまっても良い?」

「……嫌だって言ったら?」

「それも言えねぇくらいに染め変えてやる。お前をオレのものにしたかった」




反論を許さない強い瞳にそっと瞳を細めて、俺は潤を見上げる。

何年越しの恋なのかは知らないけれど、これほどまでに強く求められるのは初めてだった。




「やれるもんならやってみな」




にや、と返すとますます人の悪い顔で返してくる唇に、ただ瞳を閉じた。




「そう簡単には染め変えらんないよ、俺」

「知ってる。そういう奴を染め変えんのが面白ぇんじゃん?」

「潤のくせに生意気」




鼻をつまんでみせればふてくされるように表情を変えたけれど、すぐに潤は微笑った。




「先に言うけど。俺、何も持ってないよ」

「は?」

「お前が手に入れて喜ぶようなものは何にもないから」




俺は何も持たない。それを知っていた潤は俺にギターを教えてくれて、不器用だった俺の隣でいつも居てくれて。

けれど、そんなこいつには惚れなかったのは俺。




「それに俺は今、隆ちゃんのものだし? 染め変える以前に俺たちが別れないと何にも出来ないって事よろしく」




おそらくこいつが一番気にかかってるのは隆ちゃんの事で、同じように一緒に組んだケンの事も気にかかってると思う。

それらをすべて染め変えられるなら、Jしか見えないようにするならどれくらいのものなのか。俺は思わず微笑った。




「頑張って、ね」

「期待されてるならそうしてやるよ」




そうして、何度目かのキス。すべて奪い尽くされるようなキスに俺はそっと瞳を閉じた。

『大切な幼馴染み』がこれからどうやって『好きな人』にまで上り詰めていくのか。

根拠のないそんな自信を持つJが、少しだけうらやましかった。