目に入ったのは、緑色のボンネット。とある知り合いが乗っていた車と同じ色。 誰かの上げた絹を切り裂くような悲鳴と、フロントガラス越しに見えた引きつった顔の男。 ほんの一瞬の間に。思わず見開いた双眸の中でそれらはすべてコマ送りのように、俺にすべてが迫っていた。 ――――やばい。ぶつかる。 そう認識するのももどかしいくらい。 さっき笑いながら別れた声が、酷く近くで何かを叫んだ。 「――――ッ――!」 絶叫に近いそれは、いつもの低い響きとは少し違って。 視界の隅を、見慣れた金髪が横切るのを不思議にさえ思った。 ――――J。 直後に続いた衝撃。そこで意識は途切れた。 うっすらと開いた視界の先に広がる、柔らかい白。淡い色のそれは何故か酷く俺を優しく包んでくれていて、俺はふわりと地に足をつけた。ふわり、ふわりとした感覚。俺は歩いている――――もしくは立っているはずなのに、実際、道なんてどこにもない。道どころか地面も、空さえも、何もない。ただ真っ白な空間がそこに広がるだけだった。 「…………?」 ここがどこかなんてどうでもいい。夢の中だとわかっている夢のように、どこを見たって何があるわけでもなかった。だったら俺はどうするかなんて考えられなかった。ただ耳鳴りがしそうなくらい静かで優しい空間の中、ぼんやりと周囲を見渡す。……何か、笑っちゃうくらい何もない。 自分の姿を見下ろしてみたら、今朝身につけた、Tシャツに羽織ったシャツ、ジーンズにスニーカー。いつもの服装と言えばその通りで、別に代わり映えはしない。とりあえずこんな所で立ち止まっているのも、と思ってゆっくりと歩き出してみれば、足にかかるはずの体重さえなかった。 軽い。これなら、どこまでも行けそう。 しばらく歩いてみるものの、どこにも誰もいない。当然だ。これは夢の中なんだから、いるはずはないのに。 「井上」 聞き慣れた声に思わず振り返る。 この声は、誰が同じように言っても決して間違える事はない。 「………小野瀬?」 そこに立っていた……むしろ少しだけ浮いていたのは、“J”と呼ぶには幼い彼の姿。初めて会った時、俺たちは互いに中学生だった。音楽の事で同じくらいに盛り上がれるのなんてお互いしかいなくって、みるみるうちに俺たちが仲良くなったのを憶えている。 少し長めの髪をした、子供の小野瀬がそこにいた。ただし出逢った時よりは少し成長した、多分この姿は――――小野瀬と一緒に音楽がしたいからと言った時の、ぽかんとあっけにとられた表情を見せた時の。中三の時の、幼い小野瀬。だから俺はいつも呼び慣れている“J”ではなく、“小野瀬”と。 「どうしたんだ?」 声変わりしている最中なのか、少しかすれた声で小野瀬は俺に不思議そうに呟いた。 「どうしたって…………なんでお前浮いてんの?」 何故子供の姿なのかとか何故こんな所にいるのかとかいろいろと尋ねたい事はあるけれど、とりあえず俺の口から出て来たのはそれだった。俺が認識する限りこいつは普通の人間で、同じように大地を踏みしめて歩いているはずなのに、こいつは今目の前で俺より少なくとも30センチは浮いている。 見慣れた黒のTシャツに文字が入っているそれはお前のお気に入りだった服。少し色が落ちた薄い色のジーンズに、気に入ってた黒のスニーカー。色をぬいた金髪は少し長めになっているけど、長髪と呼ぶには短い。見間違いもなく、完璧に小野瀬だ。ただそのふわふわ浮いてるのさえなければ。 思わずその頭の上に輪っかでも乗ってたら俺は指さして笑ってやるつもりだったんだけど、それさえもない。当たり前だ、あったら小野瀬は死んでるなんて事になる。それこそありえない。あいつは同じ飛行機に乗って事故って俺が死んだとしても生き残るほど生命力強いし。ゴキブリみてぇ、ってスギちゃんと笑ったし。 問題はそんな事じゃなく。 「井上こそ」 「は?」 俺も浮いてるのかオイ冗談じゃねぇ非現実的なと思った瞬間。 「なんでこんな上も下も何にもねぇような所でわざわざ歩くんだ?」 …………こいつ、こんなに非現実的な馬鹿だったっけ。 思わず腕を組んで考えてしまいたくなるくらい、小野瀬は当たり前のようにそれを口にした。 つまり多分、俺は歩くとかそういう当たり前の事を考えちゃったから小野瀬のようには浮けないんだろう。 「なんでお前、わざわざこんな所にまで来たんだ?」 まるで。それはお前がここがどこなのか知ってるみたいな口ぶり。 わからないと答えた俺に、小野瀬は一緒に歩いていいかと尋ねてきた。それを断る理由なんか俺は何ひとつ持っていなくて、一緒に来ればいいじゃんと答えると酷く嬉しそうに微笑った。 変わらない、いつまでも変わる事のない、笑顔を。 自分は地に足をつける気もないのか、相変わらずふわふわ浮いたままの小野瀬の背中を見ながら思う。小野瀬の身長は、浮いていてなお俺より少し高い。つまりは今の俺よりは、小野瀬は少し小さい。うっわちょっと感激かも。いっつも見下ろされてたから。 小野瀬より更に上を見てみれば、何だろ……水色?の球体が浮いていた。ここからじゃその透明なそれに何が入っているのかわからなくて、繋いだ手を引っ張った。 「小野瀬。あれ、何?」 「え?」 「あの、上の。水……みたいな中に入ってるの」 薄い色のその中に明らかに何か入ってるのはわかるんだけど、それが何かまではわからない。 それくらい高く、遠くにそれは浮かんでいた。 「いずれわかるよ」 小野瀬はそれを見もせず、それよりほら、と言う感じに俺を引っ張った。 子供が一人、ブランコに乗ってうつむいている。 「どうしたの?」 いつもなら別に子供に話しかけたいとは思わなかった。だけど、思わず話しかけてた。 揺する気もなく、ただ座ってうつむいている。黒髪は子供らしくつんつんで、なんかやんちゃそうな子だと思った。その子は、少し俺を睨み付けるように見てたけど、やがてゆっくりと話し出した。 「…………姉ちゃんとケンカした」 「どうして?」 「だって。オレが悪いんじゃねーもん」 少し高めの声は絶対に謝らないぞと言いたげにきゅっと唇を噛んだ。 悔しそうにどこかを見る瞳に、俺は思わず彼の前にしゃがんだ。何も言わずに黙ってると、その子はうつむいてぽつぽつ喋り始めた。 「……姉ちゃんがオレのマンガ、捨てた」 多分この子にとっては、大事な漫画だったんだろう。その感覚は遠くになってしまったけど、俺も体験があった。 大事で、いつもいつも読みたくて、少ない小遣いの中からかき集めてようやく手に入れたもの。 「だったら、君は悪くないじゃない?」 「けど、オレも文句いっぱい言ったら、姉ちゃん怒った」 このちいさな頭の中はきっと、捨てられた漫画よりもそのケンカしたお姉さんの事の方が重大になってるんだろう。今にも泣いてしまいそう。嫌われたかなぁ、と更に小さく呟いた。 「お姉さん、好き?」 「……好きじゃねーもん。あんな、怒ってばっかの」 「ほんとに?」 「――――……好き。だって、お菓子買ってくれたり、オレが好きなケーキの時、今日だけって言って、半分くらい分けてくれるもん。けど、多分もう姉ちゃん、オレなんか嫌いになった」 くるくると変わる表情に思わずこっちは微笑って。おかしいとかじゃなくて、ただ純粋に微笑ましい感じだった。きっと優しいお姉さんなんだろうなというのは想像ついた。……多分、そのお姉さんも今頃この子と同じような表情でうつむいているんだろう。 俺はうつむいた、少し猫っ毛の黒髪をぽんぽんと軽く叩いてやった。 「帰ったら、多分お姉さんごめんなさいって言ってくるから。君は、許してあげな? そしたらきっと仲直り出来るよ」 「そー、かな」 「大丈夫だよ。本は探したらいくらでもあるけど、君のお姉さんは一人しかいないんだから。仲直り、出来るよ」 「うん」 ようやく無邪気に微笑った彼に、同じように微笑い返す。 「優しいなー、井上」 それまでずっと黙ってみていただけの小野瀬が、突然呟いた。俺はちょっとらしくない人助けに首を傾げながら、隣で俺にくっついたままの子に微笑いながら肩をすくめる。 らしくないのは、この子が小野瀬と同じ瞳をして見上げてくるからだ。 「それで、捜してたのはこの子?」 ――――――人捜し。 自分でも自覚してなかった言葉を小野瀬に言われて、俺はその子を見下ろしながら首を振った。 違うよ。俺が捜してるのは、この――――小野瀬じゃ、ない。 「ううん」 俺が浮いてる小野瀬から幼い小野瀬の方に目をやった途端、その子は光った。 目を開けていられる、柔らかな光。 「ありがと、お兄ちゃん」 にっこりと笑った小野瀬はやがて、光の粒子となって散らばった。 きらきらと放つ光はやがて原型を留めず、ふわりと四方に散らばって――――消えた。 俺が目の前の光景に言葉を発する事も出来ずに驚いていると、小野瀬は 「良かったじゃん、おじさんとか言われなくて」 とか言って。殴ってやろうかと思ったけど、これは『いつも』の小野瀬じゃない。睨み付けると小野瀬はまた俺の腕を何でもない事のように引っ張った。 「次、行こっか」 どこに行くというのか。何も言えずに俺は、少し先をふわふわ浮いて進んでいく小野瀬について行くしかできなかった。 尋ねたい事はいくらでもある。だけどどこから、どれから口にして良いのかさえ俺にはわからなかった。 それでも怖いと感じないのは、そこにいるのが小野瀬だからだ。 |
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