――――――――捜してるのは、誰? 目の前に濡れた姿のままで俺の前に、今にも崩れ落ちてしまいそうな彼がいた。俺は目の前の彼から目を逸らさずに、ただ見つめていた。最初に出逢った時に目の前の青年が俺にしたのと同じように、ただ、彼を。 赤色に染まった髪が見慣れている姿と違うのは雨か何かに濡れてぺちゃんこになっている。俺はそれに触れる事もせずに、うつむいた頭を見つめた。数年分は軽くさかのぼる、現在見慣れている彼よりは幼い顔つき。 「捜してたのは、彼?」 ふわりとその横に降りて小野瀬が問い掛ける。俺に合わせて重力に縛られる気のない小野瀬は、それでも手だけは相変わらずどこかしら俺に触れている。今は俺の肩に添えられ、体重もかからないそれはただ体温を感じるだけだった。 俺は応えないまま、目の前の青年と小野瀬を見比べた。同じような表情を浮かべた二つの顔は、その間に数年分の時間を挟んだだけの、同じもの。 「……オレ……」 少し幼い『J』が、呟く。 「オレ、わかんねぇよ……イノ……」 うつむくと赤色の髪が、目を覆った。 これは、あの時だ。見かけによらず責任感の強いお前が、何もかもを投げ出して、逃げ出して。いなくなって、ようやく捜し出した時の、お前だ。あの時の俺は今よりもっと長い髪で、女に間違われる事なんていつもの事で、その度にお前が微笑ってた。いつまでも続くと思ってた幸せな時が、そうじゃないとはっきりとお前が示した時のこと。 責任感の強い、誰にも負けないと思われていたお前が、責任も立場も何もかも投げ出して。いつも救う側だったお前が、救われる側だった俺にすがってきた、たった一度だけのこと。あの時の俺はお前を見上げて、抱きしめて一人じゃないんだって事を示す以外は何も出来なかった。 埋もれてしまったはずの記憶が明瞭に浮かぶ自分に少しばかり呆れながら。俺は、そっとその記憶を拾い上げた。 あの時お前が頼ってくれたのが俺だった事を、俺は今でもどこかで誇らしく思っている。…………他愛もないこと。 「――――J」 これは過去だ。俺はすぐ隣にいる小野瀬じゃなく、目の前でうなだれたJに優しく声をかけた。 あの時の言葉を今でもお前が欲しがるというのなら、いくらでも言ってやるよ。 「一人なんかじゃない。一人だって思うなら、俺をいつでも呼び出して」 何年も前の、たった一度の事を。お前がいつまでもぐずぐずと引きずってるはずないだろ。 そんな奴じゃないって事くらい、誰よりもきっと俺が一番わかっている。 「そしたら、俺はお前の手を繋ぐから。ずっと傍にいるから。見守ってくれてる人たちを、思い出して」 一人だなんて言わせない。 ずっと一緒にいて、ずっと傍にいて、何もかも同じ風景をひとつひとつ微笑いながら見ていた。 それさえも失わないで。それさえも、否定しないで。 あの時、俺はそう言った。俺まで泣いてしまいそうなほどに傷ついたお前の姿を見ながら、ただ手を繋いで、抱きしめて。この世界で一人でいるなんて思わせないようにするには、それしか思い浮かばなかった。あの時、少しだけ光を取り戻したお前の瞳が俺の前で同じように俺に向けられていた。 「もう全部、済んだ事だから。忘れて……それでいいから」 そして俺の捜し人も、お前じゃない。 ゆっくりと俺に微笑って肯いて、少しだけ微笑んで……消えた。音もなく、さっきと同じように。 光の粒子となって、散らばった後、跡形もなく薄れていった。 何もない空間に、また俺と小野瀬だけが取り残された。 「……………………」 沈黙の後、小野瀬は俺の肩を中心にして、くるりと上から一回りして、すとんと俺の前に立った。同じ場所にスニーカーが降りて。俺を、のぞき込んできた。 「捜し人、思い出した?」 何もないのに、柔らかくて、暖かい空間。少しうつむいてから、俺は少しだけ微笑って肯いた。 捜している人。ずっと、ずっと捜していた人。 「俺が捜してるのは、小野瀬だ」 金髪の下でゆっくりと小野瀬がまばたきをする。見慣れたその顔はもう微笑っていない。 真意を尋ねられない表情で、小野瀬はまっすぐ俺を見つめていた。 「オレも小野瀬だよ」 うん、と肯く。間違える事なんてありえない、ずっと隣にあったその姿。 きっと小野瀬は最初から全部わかっていたんだ。俺がなんでここにいるのかも、誰を捜しているのかも。 少しだけ首を傾げるようにして、俺を見つめる。 「オレを連れてってよ。オレが『小野瀬』になるから」 俺はすぐには答えなかった。……酷く誘惑的な誘いだ。申し出には驚くほど無邪気な響きを持って、俺を包み込んでいた。俺の腕を抱いて離さない小野瀬に、俺は心の中で小さく謝った。 「…………君は、俺が捜してる『小野瀬』じゃない」 ようやく口に出来た、否定の言葉が酷く苦く痛むのはきっとその誘いに乗りたがっている俺がいるから。 目の前にいる小野瀬ならきっと、俺を選ぶ。だけど真実の小野瀬は、そうじゃなかったから。 「オレも『小野瀬』だよ。……井上の見てる『オレ』と同じ。人格ってのはたったひとつじゃない。井上なら、わかるだろ?」 うん、わかるよ。だって俺だって、本当はもっと醜くて汚い俺がいるから。誰にも見せられない、俺が。 腕が静かに離れて。俺は肯きながら、予想以上にそれを寂しいと思う事に驚いた。離れていく腕が。 離した手を、小野瀬は大きく鳥のように広げてみせた。俺は、ここが何なのかもうわかっていた。 「何が真実かなんて、本当の事は誰にもわからない。それこそ、ここには……『オレ』が井上にしか見せられないものも、誰にも見せたくないものも、掃いて捨てるくらいいくらでも転がってる」 ここにあるすべてのものが、小野瀬の真実。どんなかけらも、記憶も、意思も。何もかもが小野瀬のすべて。 それでも、俺は目の前の小野瀬を選べない。俺が――――俺たちが捜しているのは、彼じゃない。俺一人のわがままで、この目の前の小野瀬を選んだら必ず悲しむ人がいる。あの人の、そんな涙は見たくない。 「それでも『たったひとつ』を求めるのか?」 問い掛けは無邪気に、だけど酷く厳しい響きを持つ。 「俺が捜してるのは…………あの時から、俺のせいで眠ってる『小野瀬』だから」 少しだけためらったのは、冷たく痛む衝撃の瞬間。 俺が見失ってしまった、あの小野瀬の続きを。 ずっと傍にいた俺を選ばなかった、小野瀬を。 「俺のせいだったから、俺が捜しに来た。だから、俺が連れて帰るんだ――――隆ちゃんのために」 君は、親友の彼の恋人。俺はそうと知りながら、ずっと叶わない恋を続けていただけに過ぎない。その恋が叶うようにと俺のわがままで、隆ちゃんを悲しませるなんて出来ない。 言い切った言葉に、小野瀬はあきらめたように哀しく微笑んだ。 俺の捜す、『たったひとつ』。それは、隆ちゃんの恋人の、お前。 俺を選ばない、お前。 「………それなら、オレは消えるしかないね」 「君は……誰? 小野瀬じゃ、ないの?」 「オレは、小野瀬だよ」 名乗られた言葉はただそれだけ。きっとこの中にいるのならば、小野瀬以外ありえないのに。 ゆっくりと、他の小野瀬たちと同じように。光となり、粒子となり、ゆっくりと消えていく。 「井上に会った時に生まれた、もう一人の小野瀬だよ」 井上に会った時にもう一人、『オレ』が生まれるほど。 それほどの衝撃を受けた。オレにとっては。 「だからこれがほんとの、オレの姿。……ごめんな、この姿だったら、選んでくれると思ったんだ」 俺の中で小野瀬しかいなかった時の姿。少し長めの髪と、あどけない表情。 十年以上経った今でも変わらない、その笑顔。あの時から、ずっと小野瀬に恋をしていた。 「…………小野瀬……」 思わずこぼれた言葉に、嬉しそうに小野瀬は微笑った。心から、嬉しそうに。 その笑顔を見るのが、ずっと好きだった。 井上のことが大好きな、オレ。 井上のためだけに生まれた、オレ。 「……お前がいなくなるなんて、耐えられねぇ。お前が傷付くくらいなら、オレがいなくなる方がよっぽどマシだ」 まるで愛の告白のように流れる科白に俺は思わず息を呑んだ。小野瀬は、ただ柔らかく微笑う。 「オレだけじゃない。『小野瀬』が、そう思ったんだ」 だから、君が思い煩う事なんて何ひとつない。ただ、微笑っていて。 小野瀬の言葉に、俺は思わず言葉を返す。 「……でも、俺は小野瀬がいなくなる方が嫌だ」 俺の反論に、小野瀬は微笑って。二人して同じ事を考えていた。 「お前が来てくれて、良かった」 「え……?」 もう目の前にいるのは、小野瀬のかたちをしていなかった。 光の粒子に溶けて、今にも消えてしまいそうな砂のように。思わず俺はかき集めてしまいたくなったけれど、それは出来なかった。 「ずっと、お前に触れてみたかったんだ。ここから眺めてるだけじゃなくて。……それだけだった」 本当だぞ、と念を押す声に、俺は思わず涙ぐみそうな涙腺を押しとどめた。小野瀬のかたちをしていた光は見事に消え失せ、たった一人取り残されたかたちになっていた。 軽い喪失感と、彼に逢えて良かったと思える想い。 ――――――いなくなるわけじゃ、ない。 今まで通り過ぎてきた、俺を構成してきたすべてがあるから、俺は俺のままで。後悔したって何もかも遅いけれど、あの時の決断も判断も間違ってなかったと今となっては言える。だから。同じように、小野瀬を構成してきたすべてがここにはある。全部、きっとずっと小野瀬の中に息づいている。何ひとつ欠けることなく、すべて小野瀬の中にあるから。 ふと見上げた先にあった、水色の球体。それはまるで、満月が涙を流すように。月の涙のように、雫がこぼれ落ちていた。その落ちている先に向かうと、…………捜していた、小野瀬が眠っていた。 「…………あ……」 固く閉じられた、瞳。変わらない金髪。何を食ったらこんなに伸びるんだと蹴飛ばした思い出のある、長い手足。 姿は変わっても、その笑顔ひとつあれば俺はお前を見失わない。 遠い昔にそう言った自分は確かだった。どれだけの人混みの中に紛れても、俺はいつも必ず小野瀬を見つけられた。 「小野瀬」 声をかけるだけじゃきっと起きない。長年連れ添って、馬鹿やって、笑い合って。 「起きろ、小野瀬。スギちゃんも、真ちゃんも心配してる…………隆ちゃんなんか、泣いてんだぞ」 ………だから、帰ろう。 声が聞こえたのか。それとも肩を揺すったのが効いたのか。 小野瀬はゆっくりと、目を開けた。 「…………………イノ……?」 その大きな手のひらが、そっと俺の頬に触れた。 「……良かった。お前、何ともない?」 まだ夢の中にいるような、かすれた声。 柔らかい声と、ふわりとした笑顔に、思わず泣きそうになった。 「うん、平気。小野瀬が、守ってくれたからね」 微笑って答えると、満足そうに微笑んだ。 「良かった……」 二人して立ち上がって、手を差し伸べた。 「迎えに来たんだ。小野瀬、一緒に帰ろ」 十年以上前に、お前を迎えに行って。一緒に帰ってた時の言葉。 目を、覚まそう。俺の伸ばした手を小野瀬が取った時、視界が真っ白に染まった。 |
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