憶えているのは、うるさいくらい鳴り響いたクラクションと甲高いブレーキ音と雑踏の悲鳴。 視界の隅に閃いた金色が陽光に透けて輝いていた。 ――――背中を突き飛ばした衝撃は、俺に向かって突っ込んで来た車じゃなく。 次に感じたのは初夏の日差しで温まってざらざらしたアスファルト。身体を打って、擦りむいた腕や足のちりちりする痛み。ガードレールを突き破って停まった乗用車から白煙が上がっている。 悲鳴が、喉で詰まって凍り付いた。 俺を抱きしめる、腕があった。 血の匂いがした。焼けたアスファルトの熱気に混じった、鉄錆の濃い匂い。 投げ出された手足と、薄い色の金髪は土埃でくもる。 オレンジ色のシャツの肩の辺りが真っ赤に濡れているのが見えた。 俺を抱きしめる、強い腕の力。離れられないほど、きつく。 すべての衝撃から少しずつだけど守られていたのは、小野瀬が俺を抱きしめていたから。 そこまでを認識してやっと、溶けた悲鳴が喉から迸った。 I Wish 目を開けると、頬の下の毛布のふわふわした感触がまず肌に触れた。少し湿ったような消毒液の白い匂いがつん、と鼻をさして、俺はぼやけた視界を何度か瞬かせる。 「………………」 頭を上げると、変な態勢で眠っていたのが祟ったのか、首が寝違えた時のようにばき、と鳴った。痛い。個人病室の、ベッドサイド。付き添っているうちにいつの間にか眠ってしまったのだろう。俺は軽く頭を振って、ベッドの主に目をやった。 寝ていたのは、ほんの短い時間だったらしい。コーヒーを買ってくると言って出て行った隆ちゃんは、まだ戻っていなかった。 鉛で肺が塞がれるような、いても立っても居られない焦燥感は、こうして病院通いする時間が長引くほどに募っていく。ため息を自覚しながら、俺はぼんやりとベッドを覗き込んだ。眠り込む前と何ら変わった様子もない静かな寝顔が視界に入って。枕に散った金色の髪の毛は、少し伸びた分だけ黒くなってしまった。 …………あの事故からもう二週間。眠ったままの、小野瀬。 ――――ほんの、一瞬の出来事。苦いものを飲む時のように脳裏にもう何度なぞったか知れないその情景を繰り替えす。あの時、小野瀬が俺の代わりに突っ込んできた自家用車にはねられて。そのおかげで、悪くすれば死んでいたはずの俺は軽い擦過傷で済んだ。その小野瀬にしても倒れた時に引っ掛けたらしい肩の傷以外、外傷は殆どなかった。それなのに。肩の傷が塞がって、俺の怪我が完治しても、小野瀬の意識だけが戻らなかった。 …………最悪の場合。 『このまま目覚めなければ、一生植物状態という可能性も』 医者の言葉が酷く残酷に頭の片隅を掠めていく。淡々とした通告を受けたその日から隆ちゃんはまともに食事を摂れなくなった。…………気持ちは、わからないでもない。わからないはずがない。スギちゃんは一日おきに事務所に電話を入れて、俺も暇を見つけては病室に通う。隆ちゃんは、周囲に気を遣っていつも笑顔でいるあの人がこの数日はすでに半狂乱だ。 点滴だけで二週間。随分青白く見える寝顔に、そっと手のひらを当てた。 「夢……?」 ただの夢だったというのか。連れ戻したと、思ったのに。 ――――起きて。 椅子に腰掛けたまま手を伸ばして、繋がれたモニタのコードに触らないように金色の髪を掻き揚げる。額にあった擦り傷も、もう殆ど消えているのに。 「小野瀬、起きてよ……」 言葉は虚しく空気に消える。 ……………その時。空気が、震えたような気がした。 「…………ッ」 思わず自分の目を疑った。ずっと閉ざされてたままだった両目が、開く。 幻ではなかった。目蓋が何度か上下して、やがて焦点を取り戻す。久し振りに見た小野瀬の瞳は、夢の中と同じように少し潤んで覗き込む俺を映し出した。 「…………イノ……?」 「小野、瀬…………」 呆然と名前を呼んだ。俺が続きを口に乗せる前に、次の瞬間、軽い緊張にも似た沈黙は騒々しい物音に破られた。 ばんっ、と物凄い音を立てて病室のドアが蹴り開かれて。何を問う間もなく、形相の変わった彼が飛び込んで来る。 「イノちゃん! J君の脳波が変わったって…………」 叫ぶような第一声が、途切れる。驚いて目を向ける衰弱した病室の主より病人のような顔が、一瞬入り口で立ち竦んだ。いつもの飄々とした姿が嘘のように憔悴した、隆ちゃんが立ち竦んで。途切れた語尾は、それ以上の大音声に塗り替えられる。 「J君!」 次の行動を予測して俺はそっと身を引いた。そんな些細な動向には目もやらず大股にベッドに走り寄って、隆ちゃんは二週間振りに目覚めた恋人を思い切り抱き締めた。 点滴の管やコード類もまるで無視して、手加減のないそれに、小野瀬は少し困ったように微笑った。 「ちょ、隆、苦しいって……」 「馬鹿ぁっ! 俺がどんなに心配したと思ってんの!?」 涙をこぼしながら抱きついた彼に、微笑っていた小野瀬はそっとその柔らかな黒髪を撫でる。 「……悪い、隆」 「馬鹿っ………!」 抱き締めた胸に顔を埋めて、隆ちゃんが肩を揺らす。俺はちいさく感じる痛みを黙殺した。小野瀬は軽く息をつきながら、しがみ付いてくる背中を軽く叩いてやる。 抱き締めてくる――――恋人の、背中を。 「ごめんな」 苦笑半分。起り得るはずの感情の殆どを隆ちゃんに先取りされた形で、俺は不思議なくらい冷静に観察した。……後の半分は、喜び、だろうか。ここまで取り乱した隆ちゃんは、初めて見る。自分のために半狂乱になってくれていることを、喜ぶ。 …………感じる痛みは、俺自身が良しとして選び取ったものだったけれど。 努めて、だから軽い調子で俺は声を掛けた。 「二週間も寝たきりじゃ、隆ちゃんじゃなくても穏やかじゃないよ」 恋人を抱き留めたまま、小野瀬は驚いた顔で俺を見た。眠り込んでいた当の本人してみれば、時間はまったく経っていなかったのかもしれない。 そう思い当たって、苦笑してた。気がついたら。 「何が何でも目開けてもらわないと、隆ちゃんに申し訳が立たなかったよ」 「……だったら、オレが目ェ覚めたのはきっとお前のおかげだな」 「え?」 「イノ、オレを呼んだだろ? だから、起きたんだけど」 小さく、息を呑んだ。小野瀬は「そんな気がしただけなんだけどな」とのんびりと付け足して。 不意に、泣きたくなる。そんな風に、何でもないことのように。 「俺は?」 遣り取りを聞いていたのか、大人しくくっついていた隆ちゃんががばっと顔を上げた。 「はいはい、隆も隆も」 「俺はついで?」 その隆ちゃんの拗ねた声に、俺は小野瀬と顔を見合わせて思わず吹き出した。 自己主張の激しい恋人を宥めながら、小野瀬は改めて俺を見た。 「…………イノ、無事か?」 心から安心したように、柔らかな声音のそれに。 俺はやっぱり少し泣きたいような気分で肯いた。 「うん。小野瀬が守ってくれたからね。…………ありがとう」 「当たり前だろ。イノはオレの幼馴染みなんだから、そう簡単に何かあられて堪るか」 無邪気に宣言する彼に、俺は微笑った。 あふれそうな喜びと、微かな痛みを訴える胸を押し殺す。 「俺だって小野瀬に何かあられたら困るんだけどね。俺の言う事じゃないけど、あんま無茶しないでよ。心臓止まるかと思ったんだからね」 下から隆ちゃんがそうだよ、援護を入れる。ただし腕は外さないままで。 わかったわかったと軽く受け流そうとする小野瀬。 「……………もしかして事の重大さがわかってないかな、小野瀬くん?」 「……いや、わかりましたごめんなさいもうしません」 両目を眇める俺に顔を引き攣らせて、小野瀬はぺこりと頭を素直に下げた。そうしながら、やっと戻って来たいつも通りの調子を喜んでいることを感じ取った。少し満足する。やっと氷が溶けるような安堵が喉を滑り落ちた。 ――――いつも通りだ。 ごろごろ喉を鳴らす勢いでくっついて来る隆ちゃんに、苦笑を禁じえない風の小野瀬は、それでも酷く嬉しそうで。俺は息を抜いて椅子から立ち上がった。 「イノ?」 「スギちゃん達に電話してくるよ。事務所とか。……それに、俺、邪魔だし」 からかうように言うと隆ちゃんは顔を赤らめたけど、俺は笑ってドアに向かった。 「…………イノ!」 病室から出ようとする俺に、小野瀬がもう一度声を掛けた。振り返った俺に改めて笑顔が投げ掛けられる。 ――――不意打ちの、駄目押し。 「お前が何もなくて、ほんとに良かった」 ドアに手を掛けたまま、俺は思わずその笑顔に見惚れた。 出会った時からずっと変わらない、笑顔。 ――――『小野瀬』が、望んだんだよ。 耳の中に誰かが囁いた言葉が蘇る。 そして、とても温かい気持ちがそこから全身に広がった。 これで、良い。 これだけで、良い。 どんな姿を見てきても、それでも失くならなかった。恋人が出来ても、それが親友でも、想いは変わらなかった。 ずっと、君が好きだった。伝えないのは叶わないからじゃない。伝えないのは、このままで良いと思ったから。 たったそれだけでも、幸せに思える自分が愛しいから。 生きていてくれる。そこで、微笑っていてくれる。 あの春の太陽みたいに穏やかな、柔らかい光を灯してくれる人の隣で、君が微笑う。 だから俺は、ただひたすら願うだけなんだ。 どんなに歳月が流れても、微笑っていて欲しい 俺なんかどうなっても構わない 君が、いつまでもいつまでも 幸せでありますように。 |